レッスンでよくある指摘の一つがこちら。
「もっと歌って」
はてさて、「楽器で歌う」とは?
いろんなことを考えます。
ヴィヴラートをかけなくちゃ!
弓を長くつかわなくちゃ!
この音短いのに歌うってどういうこと?
本能的に、自然にコントロールできるようになっていると、
ついつい「歌って」といいがちです。
改めて結果的に「歌えている」状態はどこから来るのか考えてみましょう。
単純に考えてみましょう。
歌とはなにか。
ネットの辞書をざっとみると、こう書いてあります。
——
拍子と節をつけて歌う言葉の総称。また、それを歌うこと。
一定の音節数によって語の調子を整えた感情の表現。
——
どうやら「節」があるらしい。
ヴィヴラートとか、長い音とかどこにも書いていないんですね。
考えてみたら、短い音でタカタカと進んでいくアカペラ二重唱のトルコ行進曲も、歌です。
節を大雑把にいえば、
イントネーションだったり、
フレーズのシルエットと言えるかもしれません。
こぶしでもあるでしょう。
方言のようなクセもありましょう。
歌の伴奏をしているピアニストによれば、
歌い手による違いで大きいのは
「どの言葉を大事にしているか」だそうです。
これを器楽に置き換えると、
どの音を大事にするか、どの和音を大事にするか、でしょう。
こう考えると、言葉と音は違うとかいう話が持ち出されそうですが、
個人的には「音楽は言語」だと考えています。
楽譜を読む時、作曲家の母国語に基づいたイントネーションは大切です。
そのために何ヶ国語もマスターしている奏者もいます。
何より「歌う」前に「語る」ことが必要とも言えます。
話が難しくなりそうですが、
一番簡単な手掛かりは、弾く音を自分の声で歌ってみることです。
とても不思議なことですが、
弾いている音がカッチコッチの人でも、扱うのが自分の声だとスムーズです。
問題なのは、その「自分の声で歌った通りに楽器をコントロールできていない」ことです。
そう、楽器のコントロールで音程やら、
リズムやらその他のことに必死になっていると
「音程が合った!」「リズムが合った!」途端満足すること、に慣れてしまいがちです。
そこで、
歌ってみて!
歌いながら弾いてみて!
歌ったイントネーションをなぞりながら弾いてみて!
と注文を重ねていってやっと気づきます。
一つ一つの音が単純作業ではない。
楽譜上の音価通りではない。
音の始まり方、終え方もワンパターンではない。
ヴィヴラートも一定速度ではない。
弓の量やスピードも一定ではない。
云々。
そして改めて、調、拍子からスラーや指示記号まで楽譜に印刷されている全情報、
楽曲が生まれた時代の演奏スタイルなどの情報をどうサマリするか、という基本に立ち返ります。
実は、これこそがクラシック音楽の指導で受け継がれる一番大きな幹なんだろうという気がしています。
やりたいことが違うと方法も違ってきますので・・・
読譜の次にある、楽器のコントロールまで厳密に手順化する指導者は稀だと思います。
ある程度の傾向と対策はできたとしても、
体格も楽器も違うので、全く同じ方法で目指すところを実現できるとは限りません。
歌い方について指導者にできることは、
個々の楽曲について
「自分はこうやってるよ」
「こう思ってたんだけど、考えが変わったんだ」
「君と同じこと考えてたんだけど、それで本番でしくじったんだよね〜」
など、経験値のお裾分けです。
そのヒントを踏まえて、自分なりの様式を成すのは弾く本人です。
ただ、限られた練習時間の中です。
どうアプローチして、
急がば回れ、悠々として急げ、の入り口まで連れていくに四苦八苦しているこの頃です。