日本語の多読の教材に『タクシー』という物語があって、私はその話が好きだ。よくある怪談のひとつで、タクシー運転手が、とある交差点でとある少女を乗せる。少女に言われた行き先に到着すると、少女は「今お金がないので、家で母からお金をもらってくる」と言い残し、家の中へ入っていく。ところが、いくら待っても少女も母親も出てこない。運転手がその家の呼び鈴を押すと、中から中年女性が出てくる。運転手が事情を話すと、女性は驚いた様子で事の顛末を語る。数日前に娘はその交差点で交通事故に遭って亡くなった。彼女の魂がやっと家に帰ってきたのだと。
東北であった大震災の後も、今なおこうした怪談は多いと聞くし、タクシー怪談はナラティブのひとつの型として確立している感がある。
さて、日本語を教える時に生徒とこの話を読むと、とても興味深い。日本文化とは異なる文化を有する人々の受容の仕方には、こちらが勉強になると思える部分があるのだ。
まず、タクシーが自動ドアであるという前提がなければ、この話は成立しない。幽霊が道端で手を挙げた場合、さてタクシー運転手はどうするか、というところから物語には文化や習慣が潜んでいる。
幽霊はドアを開けられるのだろうか? その疑問が、日本国内ではそもそも発生しない。日本に住んでいる者であれば、運転手が運転席に座ったまま操作すれば、客が手を触れずにドアが開くというのは当たり前のことになっている。客への介助が必要ないなら、運転手がタクシーから降りてノコノコやってくることもない。幽霊が自分でドアを開けるという難問が、難問として認識される前に解決されてしまっている。外国の、客が自分でドアを開けるタクシーではこうはいかない。
だが幽霊が自分から車に乗り込む場合は、憑りつかれた生者がドアを開けて乗り込むとか、ふわふわした何かがドアをすり抜け「幽霊だ!」と一瞬でバレる事態になるとか、話の形が変わってしまうのだ。それは日本における個人の車も同じで、間違っても、運転手がのほほんと行き先まで送ってあげる事態にはならない。ところが日本のタクシーだけは、幽霊は自分でドアを開けなくてもいい。
こうしてみると、タクシーに乗り込むというのは日本独特の幽霊活動(?)なわけだ。さらにタクシー怪談が怖いのは、運転手が幽霊とサシで密室にいなければならないというところだろう。これは……怖い。背中を向けているのも怖い。
というわけで、タクシー怪談はまずタクシーに「乗り込む」という行為が外国では難関なのだ。私はこの話を読む前に、さりげなく「日本に来たことはありますか?」(日本に来たことがあるなら)「日本のタクシーに乗ったことはありますか?」(日本に来たことがないなら)「日本のタクシーを知っていますか?」という導入をすることが多い。YouTubeで検索すると、タクシーの自動ドアのシステムについての動画があるので、タクシーというものについてのスモールトークという形で、「タクシーのドアは客が触れなくても自動的に開く」という知識をあらかじめ出しておくのだ。
日本のタクシーに乗ったことがない生徒にとって、こうした前提は割と有益な気がする。というのも、この話は外国語の読解にありがちな罠が潜んでいるからだ。それは「知らないことを飛ばして読む」ことの功罪とでも言うべき重要な部分である。
本来この本は多読教材であり、生徒が自力でどんどん読み進めることを前提としている。だから生徒向けにとても親切に設計されていて、挿絵で大きく「運転手が運転席に座ったまま、後部座席のドアを開けてくれる」光景が描かれている。さらに地の文で「運転手が」タクシーのドアを開けたことが明記されている。
ところが、日本のタクシーに乗ったことがない生徒は、まずここを理解しようとしない。理解できないのではなく、理解しようという試みを無意識にすっ飛ばして読む傾向があることに、私はある時気づいた。
曰く、タクシーのドアが勝手に開いたから、少女が乗り込んだ(最後まで読んで幽霊だったっていうことだったから、あれはポルターガイスト的なやつ)。
女の子が自分でドアを開けて乗り込んだ。だから少女が幽霊だなんて、最後まで思わなかったし、突然幽霊だって言われたから、この話は筋が通ってなくて面白くない。
「最初にドア開けて乗り込んでるのに、最後に唐突に幽霊だって言われて、わけわかんない、この話」と実際に英語でまくしたてられた時は、私の方が「えぇ……??」となった。いや「運転手が開けた」って主語も述語も書いてあるやんけ。
この話を読んでいるほうは、「タクシーとは、自分で重いドアを開けて乗り込むものだ」というのを当たり前のことだと思っている。だから少女を幽霊だとは思わない。目の前に「運転手が」という主語が書いてあるのに、それは自分の知っている知識に合わないので、無視する。
日本語を教えていて非常に気を遣うのは、「書いてあることを無視する」読み方を定着させてはならないということだ。「ワニが人を食べた」と「ワニを人が食べた」は全然違う。単語の順番が同じだから同じ文だと思う生徒は多い。よく読めば助詞が違うのに、それを無視するのだ。語順で文の意味が決まる言語と日本語は違うのに。
初級の段階で助詞を飛ばすクセをつけてしまうと、(一応)上級者になってもずっと彼らは助詞を無視し、正確に読むように言うと「もう私に知ってです」とかドヤ顔で言ってくる。
文化の違いというのは、だから、おもしろいねぇなどと言っている場合ではないのだ。そこで「運転手がドアを開けた」という事実を、事実として読めるかどうか、そこから勝負は始まっている。
物語は楽しんで読んでほしい。それは大前提だ。だから細かいことは気にせず、多少わからない言葉があっても飛ばして読んでいい。そういう意見はよく理解できる。多読の目的がそうした「質より量」にある点は重々承知している。
だが、前後関係から単語の意味を推測し文脈を把握するという作業と、ひらがな(あるいは助詞)を飛ばし自文化の枠内で適当に想像しながら読むというのは、似ているようでまったく違うと個人的に思う。前者は書いてあるものを何とか理解しようという能動的な行為だが、後者は「相手の言っていることはワケワカランから適当に相槌打っとこう」という感じ。コミュニケーションを成立させようという試み自体がそこにはなくなってしまう。
「運転手がドアを開けた」という文を、書いてある通り「運転手がドアを開けた」と読み、その上で「どうやって開けたんだろうか」と思うなら、その生徒は文化や習慣の違いを嗅ぎ取る鋭い嗅覚を持っている。そして必ず私に聞く。「運転手がドアを開けた」という文は、文の内容として正確なのかどうか。この物語の書き手は何を書こうとしたのか。私が「この文は正確であること」「運転手は運転席から降りずに、手元でドアを操作できること」を伝えると、そういった生徒は安心して次へと読み進めていく。多少知らない言葉があっても、挿絵から意味を推測し文脈をつかんでいく。
だが自分が理解できないことを「何それ」「この話わけわかんないから、面白くない」と言ってしまうなら、それはもう、言葉の勉強ではない。読み進めて終わりまでいっても多読の意義はないのだ。なぜなら、言葉を勉強することの目的ともいえる、コミュニケーションをしようという試みそのものを生徒が放棄しているから。
私が「日本のタクシーは客が触らなくてもドアが開く」ということを導入で伝えるのが、適切かどうかは未だにわからない。答は多分出ない。生徒がひとりひとり違うからだ。それに、文化の違いを最初は知らなくても、日本語が読めるようになれば、そこから知っていくだろうという考え方もあるだろう。
ただそれでも、私は生徒の様子を見て、時には読む前に言うだろう。「日本のタクシーは、客が触らなくてもドアが開くんです」と。日本語を理解したい生徒なら「なるほど、そんな細かいところにも、私の知っていることと違うことはあるんだな。他にもあるだろうか」と思ってくれるだろう。「あっそう」としか思わないなら、別にそこで終わりでもいい。それでも、本を作っている人たちが正確な日本語で文章を書いてくださっている、その「テクストへの信頼」だけでも、私は生徒に伝える義務があると思うのだ。ドアを開けたのは少女じゃない、運転手なんですよ。だから、書かれている文章は書かれている通りに読んでください。それを教えるだけで、この多読教材は生徒の頭の内に生きてくると私は思っている。