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Cafetalk Tutor's Column

Kiyoka 講師のコラム

100年前の私の先祖*大正・明治時代の日本人

2024年5月15日

日本語教師のKiyokaです。今日のトピックは、写真の100年以上前の日本人、私の先祖についてです。この写真は1921年ぐらいに神戸で撮られたものです。真ん中のハーモニカを持っている少年(5歳)は私の祖父で、1916年生まれ、大正5年生まれです。祖父の隣にいる曽祖父は、おそらく1879年生まれで明治12年生まれ。
曽祖父の後ろの女性は、私にとって曽祖父の母、高祖母(こうそぼ)にあたる人の出生年は分かりません。彼らは神戸・湊川で塩問屋をしていました。

神戸は港町として知られています。1868年(慶応3年)に開港し、外人居留地もできました。1874年(明治7年)には神戸・大阪間に鉄道が開通して、1889(明治22年)には神戸港が輸入額で横浜港を越え日本一になりました。塩問屋の商売も繁盛していたそうです。外人居留地ができたこともあってでしょうか、祖父は英語を習っていたそうです。この時代にしてはめずらしく一人っ子でした。たいそう可愛がられていたと聞いています。この写真からも神戸の良い時代の幸せな家庭であったことが伝わってきます。しかしながら1945年の神戸大空襲で家もなくなり、生き残ったのは、出兵中であった祖父と写真向かって左側の曽祖母だけでした。第二次世界大戦が終わり、出兵から祖父が帰ってきてまもなく曽祖母も熱病で死亡ました。空襲で全てなくなったので、祖父は神戸の田舎に疎開して祖母と結婚しました。空襲で親や家を失ったことは淡々と話していた祖父ですが、自分の出兵中のことを話していた時に急にはげしく泣き出したのを子供心に覚えています。

この小さな家族のライフストーリーから色々なことを考えさせられます。国と国との戦いはこの時代にも続いています。今の私の状況は、祖父たちの時代とは違い国の命令ではなく個人で何をするかある程度の自由があります。平和のために何ができるでしょうか。この家族に会うことができるなら、何を話せるでしょうか。100年前の日本人にはできなかった旅客機で自由に移動できて、ネパールという国で彼らが見られなかった景色を見て、全く違う文化の中で生活しています。私はどこに住んでいても平和のために貢献できる人でいたい思います。言葉は「剣」に例えられることがあります。日本語という言葉を争いのためでなく、人と人とをつなぐ道具として上手に使えるようにお手伝いしたいと思っています。

Cefetalkを始めて1ヶ月ほど経ちました。Lessonを受けてくださった皆さまいつもありがとうございます。これからも自分の教えるスキルを向上させて参ります。まだお会いしていない、この記事を読んでくださっている皆様もこれからどうぞよろしくお願いいたします。

我是日語老師Kiyoka。今天的主題是100多年前的日本人,我的祖先。這張照片是1921年在神戶拍的。中間拿着口琴的少年(5歲)是我的爺爺,生於1916年,大正5年。祖父旁邊的曾祖父大概是1879年生,明治12年生。曾祖父後面的女人,對我來說,不知道相當於曾祖父的母親、高祖母的人的出生年月。他們在神戶·朱川開了一家鹽批發店。
神戶作爲港口城市而廣爲人知。1868年(慶應3年)開港,還出現了外國人居留地。1874年(明治7年)神戶·大阪之間的鐵路開通,1889年(明治22年)神戶港的進口額超過了橫濱港,成爲日本第一。聽說鹽店的生意也很興隆。可能是因爲有了外國人居留地吧,爺爺在學英語。他是這個時代罕見的獨生子女。從這張照片中也可以看出這是神戶好時代的幸福家庭。但是1945年神戶大空襲中房子也消失了,活下來的只有出兵中的祖父和照片左邊的曾祖母。第二次世界大戰結束後,出兵後爺爺回來了,不久曾祖母也因熱病去世了。因爲空襲都消失了,所以爺爺疏散到神戶的鄉村和奶奶結婚。爺爺在空襲中失去父母和家的事情很平靜,但是小時候記得在談論自己出兵時突然哭得很厲害,嚇了一跳。
從這個小家庭的生活故事中可以想到很多事情。國家和國家的戰爭在這個時代也在持續。我現在的情況與爺爺們的時代不同,不是國家的命令,而是個人做什麼,有一定的自由。我們能爲和平做些什麼呢?如果能見到這個家人,我能說什麼呢?可以乘坐100年前日本人無法乘坐的客機自由移動,在尼泊爾這個國家看到他們看不到的風景,生活在完全不同的文化中。我想成爲能爲和平做出貢獻的人。語言可以比喻成"劍"。我想幫助您熟練地使用日語這個詞,而不是爲了戰鬥,而是作爲連接人與人的工具。
開始Cefetalk已經有一個月了。一直感謝接受Lesson的各位。今後也會努力提高自己的教學技能。現在還沒見面的正在讀這篇文章的各位今後也請多多關照。

大正時代の小学生*祖父と曽祖父

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