次の(1)と(2)の文を比べると、(2)は日本語としておかしいことがわかると思います。そして、(2)の文がなぜおかしいのかと言うと、主語が娘で、私以外の人だからだということは多くの人が知っていると思います。「私」や「私たち」は一人称、私以外の第三者は三人称と言われますので、「『思う』という動詞を使う時は、主語はいつも一人称なんだ」と理解するかもしれません。
(1) 私は将来、日本語教師になろうと思う。
(2) ×娘は将来、日本語教師になろうと思う。
しかし、「『思う』の主語は一人称」と理解してしまうと間違いになります。(3)のように「思っている」なら正しい日本語になるし、(4)のように「思ったようだ」という形なら正しい日本語になるからです。
(3) 娘は将来、日本語教師になろうと思っている。
(4) 娘は将来、日本語教師になろうと思ったようだ。
さらに、「思っている」という形の時はいつも三人称が主語になるというわけでもありません。私が主語でも(5)のように「思っている」は使えます。
(5) 私は将来、日本語教師になろうと思っている。
また、「思う」の主語はよく省略されます。(6)のような文を見て、「主語が三人称なのに正しい日本語だ。なぜだろう」と思われるかもしれませんが、「思う」の主語である「私」が省略されているのです。そして、(6)の文で「誰が思うのか」と言えば、「彼が思う」ではなくて「私が思う」という意味になります。
(6) 彼は間違っていると思う。
さらに、「思う」という形だけではなく、「思った」という過去形も「思わない」という否定形の場合も主語が彼ではなく私という解釈になります。ただし、これは会話文の場合の話で、小説の地の文(台詞以外の文)では「思う」「思わない」「思った」の主語が三人称になることがあります。
(7) 彼は間違っていると思った。
(8) 彼は間違っているとは思わない。
ここまで読んでいただいた皆さんは「複雑だな~。結局『思う』の主語は誰なの?」と思われたことでしょう。ここまでの「思う」の主語に関する規則はすべて(9)の原則を覚えておけば解決します。a,b,c,dは(9)の原則から「思う」の主語に関する問題をどう理解したらよいかを示しています。
(9) 日本語では普通、直接知っていることとそうでないことを同じ形で表現できない。
a. 自分以外の人が思っていることは直接知ることができないので、「思う」という動詞単独では表現できない。
b. 自分以外の人が思っていることを推測することはできるので、「ようだ/らしい/かもしれない…」などの形式をつければ表現できる。
c. 「ている」は客観的に報告する形式なので、「彼は…と思っている」と表現できる。
d. 小説家は小説の登場人物の思考・感情を直接知っているから、小説の地の文は別。
この原則は、金水(1989)という論文の中で指摘されていることで、「思う」だけではなく、思考や感情を表す表現すべてに当てはまります。思考や感情を日本語で表現するときは、この原則を思い出して、正しく表現を使い分けましょう。
<参考文献>
金水敏(1989)「『報告』についての覚書」仁田義雄、益岡隆志(編)『日本語のモダリティ』、pp.121-129、くろしお出版.
山口洋輝(2023)「『思う』のモダリティ的意味について」『学習院大学大学院日本語日本文学』第19号、pp.53-66.