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Cafetalk Tutor's Column

Tutor Teiko 's Column

今この国で感じていること

Weekly Topic: Let me tell you what is happening in my country right now !

2021-04-17 | 12 Comments

こんにちは、Teikoです。
 
今日はしとしと雨が降っていますが、小さな鉢植えの薔薇、ジャクリーヌ・デュプレとピエール・ド・ロンサールや、ブルースター、パンジーなどが次々に開花してくれて嬉しい日です。
 
 
今週のテーマ、「今、私の国で起きていること」
 
 
私は、ときどき聞く、いまだに子どもたちを苦しめている「校則」に恐怖することがあります。
 
先日聞いたのは、下着が白ではなかったため脱衣させた、というニュースです。
 
7歳の子供であっても、保護者以外の人間が下着を確認するなど、あってはならないことです。さらに脱衣させるなどは、刑事事件に相当する酷さです。
 
ある中学3年生は、髪の色がもともと茶色がかっていて、
受験のためにその日だけ黒く染め直す方がいいのではないかと悩んでいました。
 
彼女は、生まれつきの髪の色のために、ほかの受験生が気にしなくてもいいことで悩まなければならないハンデを負っているわけです。
 
日本では、表向き人権の尊重や平等、差別をしないことが謳われていますが、その実はそうではありません。
 
毛色の違う人間、よそから来た人間、自分たちと異なるアプローチや考え方をする人間を、嫌悪し、無視し、嫌がらせをし、人権侵害さえ起こっています。
 
そして、今もって「事なかれ主義」
 
あるとき、外国から働きに来ている若い男の子が、社長の注目を浴びないように、
LAY LOW が一番だ、と言い切ったことがありました。
 
LAY LOW
 
これが、最も得策で、そうでなければ、痛い目に遭うということです。
 
わたしは、以前髪を金髪に染めたことがあります。

れっきとした大人でしたが、周囲の反応は微妙だったと思います。

なかには、
 
すごいイロ。
 
と言った人もいました。
 
子どもたちの反応は、
 
先生の髪、エルサみたい!
 
きれい~☆
 
黄土色 ← (T_T)
 
などさまざまでした。
 
彼らにとって、髪の毛の色など、結局はどうでもいいのです。
 
 
発言や表現、というのは、その人独自の思考のみで成り立つのではありません。
発言や表現は、評価され、結果としてその人自身の進退に発展するため、
周囲の評価を見越して合致したものになりがちです。
 
場に応じた、適切な表現をすることはもちろん重要なことですが、
 
そこに、圧迫感、優劣意識、などが潜在的にあると、
 
本来であれば、自由に表現されるべき発言や表現も、
 
無視されて公開処刑のように辱められたり、
恐喝されたり、
村八分に遭ったり、
袋叩きに遭ったりすることもあるのです。
 
あなたの髪、素敵な色にしたのね。
 
と言ったからと言って、誰も傷つかないはずなのに、
たったそれだけのことが言えず、
まるで犯罪者のような目で見たり、
「すごいイロ」などと心が傷つく言い方をするなんて
どうしてなのか、わたしにはわかりませんでした。
 
さらに、好奇心と権利の行使が混同されています。
法廷などでさえ、ただの好奇心から権力が行使されたように見える事例があります。
 
一個人の私でさえ、上司が私の私物を物色していたり、
会社の同僚が私の部屋の周りをうろついていたことさえありました。
インタビューの場で、関係のない個人的な事柄について聞かれ、記録されたりするのもおぞましいことでした。
 
好奇心がプライバシーへの配慮という概念を簡単に失わせてしまうということは、
基本的な人権や、踏み込んではいけないプライバシーの概念について
しっかりとした倫理観に基づいた教育がされていないということです。
 
バレなければいい、
相手が女だからいい、子どもだからいい、
どうせ何も言えないだろうからいい、
立場の弱い側の人間だからいい、
部下だからいい、
自分たちと違うからいい・・・
 
どんなに小さな侵害であっても、あってはいけないことなのだと認識されるようなクリアな倫理観が、社会の底辺に育っていなければ、お互いにきもちよく言葉を交わすことさえ恐れるようになるでしょう。
とくに立場の弱い側にいる人間は、口をつぐんでなるべく目立たないところでじっとしていようとするしかないでしょう。
 
 
いま、日本の社会は幸せではない
 
と、多くの人が感じているといいます。
 
そこには、このような閉塞感、
 
自由に自己表現することへの恐怖、
 
周囲のメインストリームが自分をどうジャッジするのかを汲々として探らなければならない暗さ、
 
そして、牽制や嫌がらせの心理に対する不安がはびこっているのだと思います。
 
こどもでもおとなでも、感じていることは同じだと思います。
 
 
でも、逆に言うと、「幸せではない」と感じているということは、
 
幸せはこういうものではない。
 
と知っているということです。
 
わたしたちは、「幸せがどんなものか」なんとなく知っているのです。
 
 
お互いの違いを気にすることなく、のびのびと自分を表現して、認め合うことのできるコミュニティ。
 
幸せだ、と感じるためには、怖がらず、自分らしく喜んで生きている実感が必要です。
 
やりたいことに挑戦していたり、
心から誰かを愛していたり、
自分が誰かを笑顔にしていたり。
 
牽制しあったり、嫌味や当てつけで傷つけあったりするのではなく、
 
たたえあい、励ましあい、賛美しあうことが息をするように自然にできること。
 
プライバシーを守る配慮と意志。
 
社会がそんなふうであるためには、
 
一元的ではない多様な価値を見出すことのできる力と配慮が必要です。
 
人と自分は違っていてあたりまえなのだということ、
表面的な装いや特徴ではなく、より本質的なことにフォーカスすることのできる知性、
偏見を持たずに注意深く言葉を用いること、
誰も傷つけることのないユーモアを交えて話をすること、
どんな人にも存在意義を見出せる資質、
 
どこまでが本当に必要な規則でどこからが踏み込みすぎた人権侵害なのかを判断する力も。
 
ほんとうに微細な侵害について言語化できるほど、倫理について明確な概念が広く認知されていく必要があります。
 
 
みんなちがって、みんないい。
 
という金子みすゞの詩がありますが、
そんなふうに感じられること。
 
ここカフェトークは、何千という講師の方がひしめきあって、
多様なことがらで空いた好きな時間に自由に教えていて、
とても素敵な場所だと思います。
 
ここにも、これだけたくさんのコラムが次々に発表されて、
面白い記事がどんどんどんどん出ているのに、
あまりコメントも目につきません。
なんだかとっても不思議です。
 
先日、私がコラムを出したすぐあとに投稿された方の写真がきれいだったので、
「きれいな写真ですね」とコメントすると、不快だという意思表示をされました。
 
いやな思いはあまりしたくないので、コメントを書くのは憚られるようになりましたし、
自分でコラムを書くのも気が引けるようになりました。
その方のコラムをもう読むことはないでしょうし、
実際、当然ですが、やっぱりとてもがっかりして、悲しい気持ちになりました。
 
(おそらく私のことが気に入らなかったのでしょうね。
彼女に何をした覚えもないのですが。
たまたま初めて読んだけで、話をしたこともありませんし)
 
誰かが悲しいと、「他人の不幸は蜜の味だから」と微笑する人もいますが、
だからといって悲しかったり傷つけられたことを、隠さなくてもいいと思います。
 
弱みを見せまいと隠さなければならないことも、
幸せな社会ではない証拠です。
 
悲しいこと、痛みを感じていることを言えず、伝えずに我慢すると、
それはなかったことのようになってしまい、
悲しみは存在しないかのように、
あるいは、もっと悪いことに、
悲しみを感じなくなってしまったり、
悲しみはあってはならないかのように思われてしまうからです。
 
幸せな社会、というのは、ハッピーなことしかない社会、という意味ではありません。
 
今、日本でたくさんのひとが抱えている傷が明るいところで癒されて、
コロナで閉ざされていても、明るい学びの扉がたくさん開かれて、
思いやりや配慮、ユーモアのあるコミュニケーションが交わされるようになると、
 
もっと幸せな国、って感じられるようになる気がします。


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