こんにちは、氣功師の有岐です。
エンパワLabo、エンパワー(empower)とは、自己の中にもともと備わっている力を引き出す事です。
「自灯明=自分の中の光を頼りに生きる事。他者や物に依存せず、自分の智慧や経験を道しるべに進むという生き方」
私が主宰しているエンパワラボとは、自分の中にこそ【内なる拠り所】が存在する事を知り、自分の中に眠る力や智慧の明かりを、人生の実践(ラボ)で引き出しながら、あなたの人生を自分の意志で、自分らしく道を照らして進む・・・そんな想いからつけた名前です。
さあ、本日はノンデュアリティ、非2元 ‟私という自己は存在しない” その2です。
今日の話はかなり私自身の主観的言葉で綴りって行こうかと思います。
ノンデュアリティ(非二元)
ノンデュアリティ(非二元)という考え方は、【「私」と「他者」や「内」と「外」という相対する二元性が存在しない】という哲学的な見解です。
これは私と他者を分離した存在だと考えるのではなく、すべては相互につながり、実際には一つであるという考え方です。
これはコインの裏と表を例にしてよく表現されますね。
コインには表と裏があり、それぞれ異なる側面を持っていますが、表と裏は切り離せない関係にあります。
コイン全体として見ると、表も裏もどちらも同じ1つの存在に含まれており、片方だけが単独で存在することはできません。
コインの表と裏は「一つのコイン」という全体の一部。1側面という事です。
2つだと思っている物は、実は関係性の中で一つの存在だという事。
もっというと、量子の世界でいうとこうです。
私やあなた、全ての物質を一番小さい単位にすると、【素粒子=常に動くエネルギーの波】の存在です。
するとコインの表や裏も実は一つであるのと同じで、私はあなたであるという事。
全ての人も物も状況も、何か固定された実体ではなく、全ては相互の影響で常に変化していく中で存在します。
目の前に流れている「川」は、その一瞬一瞬で違う水が流れていて、私たちには「川」と見えていても、それは同じに見えてもう別の物(川)です。
自分だと思っている存在も「1次的な側面」に過ぎないということです。
10年前のあなた、昨日のあなた、今この瞬間のあなた、明日のあなた・・・
あなたという存在は同じではなく、いつもいつも変化しています。
それはこの世の法則。
だから、「これが自分だ」というイメージが、変わらないという事自体がすでに不可能なんですね。
私たちが思う「生まれる」と「死」を時間軸の中の出来事で捉えると、別の出来事に思いますが、生まれなければ死なないわけで、この世の全ての出来事は必ず「種があれば花が咲く」この世の法則は表裏一体。
時間軸は私達が単に脳が概念として理解しているもの。
昨日の私を思い出すのも、10年前の私を思い出すのも、「今の私」でしかできないはず。未来の私も「今の私」が思い描くだけ。
私達は「今」しか実際に見る事が出来ないのです。
種と花は同じものであるなら、生と死は同じと捉えられるのです。
3次元や4次元、5次元は別のところにあるのではなくて、同じ所に包括されている物です。全てが分離していて別のところにあるように感じるのは、私たちは分離の催眠にかかっているからじゃないでしょうか。
全てはどこにもない。
私たちに「自由意志」なんてない?
何かを選択しながら生きている、だから私たちは自分の意志で生きていると思っているかもしれません。
でもその選択は本当に自分が自分だけが主体的に決めているのでしょうか?
社会は大人になったら競争の中で、優劣を競って生きていかなければならない、そういう幻想を教育で刷り込んできました。
じゃあ、高校に行って、大学に行って・・・それもなるべくいい学校へ・・・
それはきっと、世界の経済の状況や、時代の価値観、科学の発展、そんないろんな事があなたの選択には影響を与えているのです。
自分が主体的に決めているように思う選択や行動も、実際には無数の要因や条件によって影響されているため、「完全に自由な意思」とは呼べないのではないでしょうか。
思考や感情もまた、過去の記憶、環境、習慣、そして周囲の影響が積み重なった結果であり、完全に「自分の意思」で生まれたものとはいえないのです。
そう考えると、失敗も成功も初めからそうなるストーリーが決まっていたとも言えます。私たちは自分が決めた「魂の設計図」通りに、自分が選択していると錯覚した幻想世界に生きているとしたら、どうでしょうか?
サレンダー(手放し)=思い込みの執着に気づく
自由意思がないと理解すると「大丈夫」がやってくる
きっと、自由意志がないと言われても、何のことかわからないという方も多いかと思います。
だって、「自分」が考えて、選択していると思っているから。
マトリックスという映画は皆さんも知っているかと思います。
本当の彼は椅子に寝ていて無意識の状態。そして、首の後ろ(ここから氣が入ったりする所なのですごくリアルな場所だと思いました)に線がコネクトされ、いわゆる「仮想現実」が舞台になっていました。
すごいですよね、20年まえならこういう話をしてもわからなかった時代から、この映画やあふれる仮想情報で、今や私たちはそういう感覚を理解できるようになりました。
ブッダは数千年前の当時の人に、仮想現実の話はできなかったでしょう。それはまさに私たちが平安時代の人に携帯を説明するような物ですから。
彼の実態を「光」または「意識」と仮定しましょう。
そしてコネクトされてみている仮想現実が私たちが「現実」だと思って生きている空間です。
そこで人間がする選択と行為は、各キャラクターは「自分」がしていると信じ切っていますが、それはすべてプログラムされたものであるなら・・・
どうですか?
自由意志がないという観点を受け入れ、サレンダー(受容)することによって、私たちは「大丈夫」という安心感を得られます。
なぜなら、自分のコントロールを超えた事柄に対して無理に抗わず、自然の流れや因果の法則に任せられるからです。
こういう観点が少しずつ今まで洗脳されてきた概念に入ってくると、意識の変化が起こってきます。
-
自己責任への執着が減る:自分がすべてを決め、思い通りにしなければならないと信じると、自分への批判や過度な責任感に押しつぶされがちです。しかし、自由意志が完全ではなく、自分の力でコントロールできる範囲は限られていると気づくことで、「すべてを完璧にしなくても大丈夫だ」という安心感が得られます。
-
安心感と信頼の心が育つ:手放して状況に身を任せると、自分を超えた流れに信頼が置けるようになります。「どうにもならないことも含めて、自分にとって最善の結果に導かれていく」という信念が根付くと、無理に何かを変えようとする苦しみから解放され、心が軽くなります。
-
穏やかで肯定的な感覚が得られる:サレンダーは、「今の状況も自分にとって必要な学びだ」と感じさせる力を持ちます。そうすることで、困難な状況に対しても「大丈夫、きっとこれにも意味がある」と受け入れられ、心の安定を保ちやすくなります。
「自我」という催眠にかかっていると、解釈の世界から抜けられずに生きる事になります。
今の私たちが「知っていると思っている」知識で、まだ解明されていない事を理解する事は不可能だという事です。
この世はままならない事ばかり。
誰かに認めてもらわないと不安になる
不安で生きている事自体が苦しい
今日は、この文を読んで「そんな考えがあったのか」
今までの概念に少し違う光が差した
それでいいじゃないですか
次回は、「認識」について、もっと具体的に
エンパワLabo、エンパワー
ブログの感想もお待ちしています
いつもありがとうございます!
有岐