読書が苦手だった。
同じ本をローテーションするだけで、
夏休みの読書感想文は毎回締切間際に仕上げる。
国語の問題文すら読むのが面倒で、
普段の読書習慣のなさが如実に表れていた。
母は何度も読書を勧めてきたが、
マンガさえ読まない僕が文庫本を手に取るわけがない。
しかも母の薦める本は、母自身の好みを反映したもので、僕の興味とはかけ離れていた。
そんな僕が夢中になった本が『深夜特急』だった。
最初はタイトルに鉄道を感じて手に取っただけだったが、
気づけば物語にのめり込み、世界を旅しているような感覚に包まれていた。
特に印象に残ったのは、筆者が水切りをするエピソードだ。
見知らぬ国で、水面に石を投げる筆者と、それを真似しようとする少年の姿。
自分にとって当たり前のことが、他の世界ではそうではないと知る瞬間だった。
僕はページをめくりながら、まだ見ぬ世界に思いを馳せていた。
読書感想文の自由課題に『深夜特急』を選ぶのは迷うまでもなかった。
「外国では日本人代表として振る舞うべきだ」といった内容を、
持てる語彙を総動員して書き上げた。
その感想文を書いている自習時間、技術のスズキが近づいてきてこう言った。
「深夜特急じゃん」
驚いて「知ってるんですか?」と聞くと、スズキは笑顔で答えた。
「もちろん。それがきっかけで旅行してるからね」
自己紹介のとき、「旅人です」と言ったスズキの言葉が頭をよぎった。
あれは冗談じゃなかったのだと気づき、
僕の中でスズキの存在が一気に大きくなった。
『深夜特急』はどこかに行ってしまった。
本棚を探しても見つからず、いつ手放したのかも思い出せない。
まるであの頃の思い出ごと、どこか遠くへ走り去ってしまったかのようだ。
ただ、一つだけはっきりしている。
あの日、スズキが笑顔で語った「旅人」という言葉。
あの瞬間、僕は知らず知らずのうちに、
スズキから旅人の魂を受け取っていたのだと思う。