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Cafetalk Tutor's Column

Toria 講師的專欄

最果ての町~カナダへの道㉛

2024年2月13日

*30話を読む

カナダの労働ビザや永住権の目途は一向に立たぬまま
2001
年の初夏を迎えようとしていた。

出張で出向くニューファウンドランド州、それも端っこにある「最果ての町」は
初夏になっても肌寒かった。

人口約2500人。対岸は、フランス領土の小さな島。
CW社の工場の裏手は海。
正面玄関の道を挟めば、鮭が昇ってくると言う、そのまんまの名前のサーモンリバー。 

わたしは仕事が嫌だった。
それ以上に、この町とこの町にいる人たちが嫌だった。
イヤなんてものじゃない、大嫌いだった。 

英語がろくに出来ないわたしだが
ここ、ニューファウンドランド州
それも、この町の英語は全くと言っていい程わかならい。
アクセントもイントネーションも、発音も初めて聞く音にまみれている。

実は、ネイティブの他州のカナダ人が
「ニューファウンドランド英語はわからない」という程。
加えて、ニューファウンドランドの中でもこの町のアクセントは独特だと言う。
だから、わたしにわかるわけがない!

嫌いな理由はまだ、あった。

町には小さな宿が2件、宿に隣接したレストランが1件。
カフェと言っていいのかわからない代物が1件。バーが1件。
ドラックストアが1件。
以上である!

何もないのだ。
まさか、カナダの最果ての町で
吉幾三の「おら 東京さ行くだ」の世界を見るとは思わなかった。
CW社の本社スタッフでさえ「あそこには、長居は辛い」という、そんな町。

何も無いから
食品や雑貨の買い物は、60キロ離れた隣町まで車を飛ばして買いに行く。
それが、この町に暮らす人々の日常。 

そんな町に、いきなり日本の会社から派遣されて来た東洋顔のわたしは
町では異物だった。
道を歩いていても、道行く人は珍しい者を見るような目つきで通り過ぎていく。
極めつけは、宿の主が部屋を掃除してくれない。
明らかに、歓迎されていないゲストToria 

そんな具合だから、わたしはいつも苛立っていた。
工場には、わたしの親と言ってもいいような年齢のおじさん、おばさんが約200名働いていた。
生産
状況や出来上がってくる製品に、いつも問題が生じる。
しかし、言葉が通じないのだ。
言葉が通じないので、ジェスチャーを駆使して伝える。
絵を描く。単語を並べる。だが、伝わらない。

あまりにもうまく行かず、わかってもらえない事にイライラして
あろう事か、わたしは選別機に流れてくるホッキ貝を手に取り
また、その選別機に叩きつけるように投げ込んだ。
すると、そのラインで働くおじさんの何人かが
わたしの背中めがけて空の段ボールを投げつける。
 

…。

無理。わたしには無理!
この日々が、しばらく続いた。

工場長は良い人だった。
イライラし続けるわたしを、何とか和ませようと必死に話しかけてくれる。
しかし、それもわたしにはわからないのだ。 

毎月、この最果ての町に私は来なければならなかった。
それも、何週間もステイしなければならない事もしばしばだった。

土日、工場が休みの日は特に最悪だ。
まず、行くところがない。
日本から姉が送ってくれた浅川次郎の本6冊を、何度繰り返し読んでも
ハリファックスの自宅に帰る日がやってこない。

晴れた日曜日、サーモンリバーであひるの親子を何時間も見ていた事がある。

あひるの親子の仲睦まじさが羨ましくて、涙したのだ。
わたしを慰めるものは、あひるちゃん親子と名付けた3羽のあひるだけ。
最果ての町は、わたしに優しくなかった… 


ヨルシカ「ただ君に晴れ」(2018)

私は、ニューファウンドランド州とノバスコシア州2か所の工場を行き来していました。
ノバスコシア州の工場のある町も小さいけれど、人口約7000人。
その町には中華料理屋もあり、フランチャイズのカフェもあり
店も沢山あり…
まだ、マシだった! そして、そこに暮らす人たちもフレンドリーだった。

ビザや永住権の事と並んで、私にとっては「最果ての町」がストレスの種になった。

さて、どうやってこの窮地から這い出すのか…(* ̄▽ ̄)フフフッ♪ ~続きを読む

TORIA (o ̄∇ ̄)/

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